一般財団法人100万人のクラシックライブ代表:緩やかに繋がる社会をもう一度

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※本記事は会報誌『LIFE&WALK』Vol.1 P2-3のフルバージョンです。

〈蓑田秀策(みのだ・しゅうさく)〉
東京都出身。1951年生まれ。一橋大学卒業後、日本興業銀行入行(現みずほ銀行)。みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)常務執行役員を経て世界最大級のプライベート・エクイティ・ファンド運営会社コールバーグ・ クラビス・ロバーツ(KKR)に入社。KKRジャパンで代表取締役社長及び会長を務める。退任後は一般財団法人100万人のクラシックライブを設立し代表理事に就任。

多くの人にとって、クラシックは身近な存在ではない。そして演奏家達は学生であれ、プロであれ、人前で弾く機会に恵まれない。 

クラシックを「聴く機会の少ない人達」と「弾く機会の少ない演奏家」を結び付け、たくさんの人を感動させている非営利法人がある。2015年に設立された「一般財団法人100万人のクラシックライブ」だ。 

代表理事である蓑田秀策氏は東京都出身の71歳。1974年に一橋大学を卒業し、日本興業銀行(現みずほ銀行)でニューヨーク勤務、ロンドン勤務等を経て常務執行役員に。退社後は世界最大のプライベート・エクイティ・ファンド運営会社コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)の日本法人で社長・会長に就任するなどバリバリの金融マンだ。 

そんな蓑田氏が2014年、KKRを退職し、2015年に財団法人を設立した。金融業界から畑違いのクラシックの世界へ。記念すべき創刊号となる今回はそんな蓑田氏になぜ財団法人を設立したのか、話を伺った――。 

――なぜ財団法人を設立し、社会貢献活動をしようと思ったのでしょうか。 

はじめから財団法人を立ち上げようと思ってはなかったのです。話せばとても長くなるのですが、社会貢献とは、自分と社会の間に何かの「問題意識」があって、そこではじめて貢献しよう思います。問題意識がないと何をしたらよいか分かりません。私の場合は、ある一定の問題意識があって、幸いにも時間とお金に余裕ができたとき、一定の活動以上をしようとしたら組織化がベストだと思いました。色々な法人格があるなかで周囲の人達に相談した結果、財団法人を選択し、設立することとなりました。 

――いつから社会に対して問題意識があったのでしょうか。そしてそれはどんな問題だったのでしょうか。 

大分過去に遡ってお話しする必要があります。私が社会人となった1970年代というのは、高度経済成長の真ん中くらいの時期でした。国産の自動車が海外に大量に輸出され、アメリカの自動車市場を席巻した時代です。また1970年、大阪万博がありました。当時、大学に入学して時間もあった私は毎日のように祖母の家から万博に通いました。 

そこで観た景色は日本の著しい後進性でした。万博でエスカレーターをはじめて見ました。当時日本にエスカレーターはほとんどなかったですから。アメリカ館に行ったら月の石がありました。まだ日本の家庭に自動車が普及していない時代、アメリカは遥か遠くの月にまで行った。これはどういうことなんだと衝撃を受けました。アメリカと日本にはそれくらい格差がありました。 

アメリカは豊かで、日本も本当に頑張らないと良くならないと強く感じました。戦後25年間、自分達が如何に国際化ができてないか、日本は非常に貧しいことを私達世代は実感しました。 

1970年代は高度経済成長の波に乗り、もっと豊かになりたいと、個人として国として思っていたと思います。「豊かになれば、すべてのことは良くなる」と信じた時代でした。我々は低開発国なのだと。先進国になるためには相当な努力をしなきゃいけないという意識が国民の基本にありました。今より良くなろうというコンセンサスが国としてありました。 

そして1970年代は個人主義が入ってきた時代でした。私達の世代がはじめて子供部屋を要求した世代でもありました。それまではちゃぶ台で勉強、テレビは家族皆で観る――。そんな時代でした。私達世代は「もっと個人として、もっと違う生き方をしたい」と思い、子ども部屋ないし子ども部屋に近い部屋を用意してもらって、ラジオの深夜放送を聞きながら受験勉強をした世代です 。

より個人主義に向かって突き進んだ時代でした。個人の生き方が大切なんだと。社会じゃなくて個人のほうが大切なんだと。 

国としては豊かになりたい、個人としても豊かになりたい、そしてもっと自分の人生を歩みたい、社会の中の一つの歯車ではなく――。それはウーマンリブ(1960年代から1970年代にかけて起きた、女性達による女性解放のための運動)や学生運動にも繋がっていきました。 

それからも日本人は一生懸命働き、経済の絶頂期を経験しました。しかし、バブルの崩壊が訪れました。そして1990年代後半、私達はふと気が付きました。「日本がおかしいなぁ」と――。 

私がロンドンにいた8年の間に、バブルが崩壊して日本がどんどん崩れていきました。世界の超一等国に上り詰めたあの日本が。 

「国が豊かになれば、社会が良くなる」と当時は本気で考えていました。しかし、バブル崩壊後、国が豊かであるということが、果たして社会にとって幸せだったのかと、自問自答しました。 

誰しもが仕事をしながら、家電や車など、ほとんどのモノは手に入れました。しかし、失われた何十年間かで、日本人は逆に精神的にものすごく追い込まれました。社会がバラバラになり、人と人の繋がりは希薄化して、コミュニティは崩壊し、隣に住んでいる人も知らないという状況です。個人の孤立というのが猛烈な勢いで進み、これが2000年代に入って、もっと加速していったように感じます。 

 1970年代、当時は困ったとき、必ず誰かが助けてくれました。近所に貧しい人がいたら、近所の人達が「今日作り過ぎちゃったのよ、ちょっと食べない?」とか「親戚からこんなにたくさん貰っちゃったんで、あなたにお裾分け」とか。ストレートにあげるとは絶対に言いません。その人が貧しいということを皆知っていたから。ご飯が食べられない人に代わる代わる近所の人が食べ物を持って行きました。いま冷静に考えれば「作り過ぎたから持ってきた」なんておかしな論理なんだけど、そういう温かい時代でした。 

こうしたことが、今、全くないですよね。この50年の間に私達の社会は大きく変質しました。「貧しかった、でも繋がりがあった」時代から「豊かになった、でもバラバラ」になりました。 

でも50年前に遡ると、私達世代はこの国を豊かにすれば、すべてのことは良くなるだろうと思って、一生懸命働いてきました。世界に進出し、日本という国を豊かにし、強くし、押し上げました。バブルの崩壊はありましたが、日本は今でも世界3位の経済大国。でもみんなが幸せかと思うと、幸せな人は少ないと思います。 

なぜこうなってしまったのか――。つまり一言で言うと「私達は国の造り方を間違えた」ということ。 

50年かけて造った国を、間違えて造ってしまった――。ものすごく反省しています。やり直せるものならやり直したい。 

50年前の私達の定義は「良い社会=豊かな社会」。しかし、いま同じ問いをかけられて、「良い社会=豊かな社会」と言えるだろうか。言えないですよね。 

おそらく、最低限、経済的に豊かであることは条件ですが、人と人が今より繋がっているのが良い社会なんだと思います。 

みんなの心が落ち着いていて、豊かな社会。どちらかと言えば経済大国より文化大国。文化とは人の心が作っていくので、心が豊かになる社会のほうが、社会としては優れているのではないかとの考えに至りました。 

例えると、電車で隣に座っている知らない人と日常会話ができる社会、「今日は良い天気ですね」「今日は暑いですね、どちらまで行かれるのですか」こういった会話が自然にできる社会、これが今の私の豊かな良い社会の定義です。 

――経済的に豊かであることは社会にとっても必ずしも豊かではないということですね。 

一生懸命働けば、豊かになれば良い社会になるという単純な図式は崩れています。そして、人の心が豊かで、人と人が緩やかに繋がる社会をどうやって実現するのか、という疑問を私は90年代後半からずっと持ちながら生活してきました。これが社会に対する私の問題意識です。 

――個人主義が台頭している中で人との繋がりを鬱陶しいと感じている人もいると思います。 

そもそも「良い社会=心が豊かで、人と人が緩やかに繋がる社会」を日本人は望んでいるのか、という疑問があります。個人主義を推し進めてきた私達世代の責任ですが。 

例えば現在の若い人達は会社の飲み会に誘うと「いいです、ぼく、ちょっと予定があります」とか「そういうのあまり好きじゃないです」みたいな感じですよね。だから私の言う「良い社会」が本当に皆にとって良い社会かなんて証明できないですよね。思い込みかもしれない。ずっと自問自答していました。しかし、あるとき確信を持つに至りました。 

――確信とは? 

日本人は私と同じメンタリティに違いないと確信をもちました。それは、オリンピックとサッカーワールドカップのときです。私がロンドンから日本をみていたとき、やたらと日本は熱狂してたんですよ。ヨーロッパで熱狂しているのは一部の人だけです。何の競技で日本人はこんなに熱狂するのかというと普段観てない競技に熱狂していました。カーリングとかレスリングとかです。オリンピックのときだけ盛り上がって終わったら忘れちゃうのに。ワールドカップも普段サッカーを観てない人達がそのときだけは「日本ガンバレー」と応援しています。これは不思議な現象です。なんでだろうって考えました。 

その答えを見つけた瞬間があります。あるワールドカップのときです。日本は敗退し、同時に韓国も敗退しました。勝てるって報道されていた試合でした。 

そして韓国選手団が韓国に帰国したら、空港でたくさんの人が待っていて、なんと石を選手に向かって投げたのです。「恥知らず」と。 

一方で日本選手団が日本に帰国したら、空港にたくさんの人が出迎えて「感動をありがとう」と負けて帰国したのに言うのです。韓国の選手は石を投げられたのに。 

勝ち負けだったら説明できないですよね。それでは何に感動していたのか。それはワールドカップを応援することで全ての人が同じ価値観になって応援できたことに対する感動だったんです。 

つまり、普段だったら「おれはAKB48応援しているよ」とか「私はジャイアンツを応援している」と人と人が、なかなか共通のテーマで一体になることはないですよね。特に今の若い人は対立を嫌います。意見の相違を表に出そうとしない。自分がそう思ってなくても、「こうだよね!」と言われると、「そうだよね!」と返し、「これ面白いよね!」と言われたら「アハハハ」と笑います。あれは全然同感していません。同調しているだけです。同調は同感とは違います。今の若い人達は怖いのです。意見が対立することが。「自分はそう思わない」って言われたらどうしてよいか分からなくなってしまいます。 

ところが、オリンピックやワールドカップはそのリスクがないのです。「日本応援するよね!」と言えば全員で応援します。ということは、思いっきり知らない人と、手を繋げるんです。価値観が同じだって分かっているから。だから渋谷の交差点でみんなハイタッチもできます。対立するリスクがない。だから感動をありがとう。何の感動かって言ったら、「全員であなた方を応援できました」という感動です。 

それで分かったんです。同じ価値観で繋がりたいんだなと。 

――なるほど。確かに最近の特に若い人達はそういった一面もありますよね。 

実はそれにはさらに後日談があって、渋谷で盆踊り大会が開催され、そこにテレビの取材 があって、テレビクルーが若い人達に「なんで盆踊りに来たんですか」と聞いたら、異口同音に若い人達は「だって知らない人達と一緒に楽しめるもん」と。知らない人達と一緒にワイワイできるってことは彼らにとっては楽しいこと。ということは日頃はできない。 

普段ならその人がどういう人か分からないし、警戒する。価値観が違ったらどうしようかと思っている。しかし、盆踊りを楽しみに来た人達は、みんな盆踊りを楽しんでいる、そこに難しい理屈はないんです。これは電車で隣に座った人に「今日はいい天気ですね」と話しかける感覚と同じじゃないかなと思うのです。 

―――「人と人とが緩やかに繋がる社会」のヒントがイベントを通じることで発見できたわけですね 。

では「人と人とが緩やかに繋がる社会」をどう実現していくのか。ある時、非常に上手なヴァイオリニストの演奏を身近で聞いたことがありました。当時クラシックは退屈だと思っていたのに、すごく感動しました。演奏者は18歳の芸大生でした。その芸大生と話をしたら「いやクラシックはなかなか聞いてもらえる場所がなくて、弾く場所もないし、若い人達は本番の機会もなかなかなくて苦労しているんですよ」という話を聞きました。そのとき、私の社会に対する問題意識とクラシックが頭の中で結びついたのです。 

弾く場所がない、でも感動する。私が感動するくらいだから普通の人は感動する。弾く場所をつくって人を集めたら、みんな感動してオリンピックと同じような感動をみんなで共有できるんじゃないか、感動を共有すれば知らない人同士が知り合えるようになるんじゃないか、こういう発想でした。 

だったらクラシックの演奏会を全国でやれば人は感動を通じて繋がるかもって思ったんです。 

音楽でより良い社会をつくる。音楽である必要はないけど、精神的に豊かで文化的に豊かで人と人が緩やかに繋がる社会をつくる。みんなが緩やかに繋がってコミュニティができたとき、社会にとっても良いことをもたらすかまでは分かりません。だけど、少なくともそこまでいけば、何らかの科学反応が起きて、お互いに助け合うとか、問題意識をもって社会活動するとか、そういった人達が出てくるに違いないと私は思っています。 

―――クラシックは偶然巡り合ったのですね。演奏会の開催頻度はどれくらいでしょうか。また法人名の「100万人の」に込められた想いとは? 

一年間で大体500~600回くらいです。来年1000回を目指しています。人口の1%には毎年届けたいと思っています。だから「100万人」です。1回50人の参加者がいれば全国で2万回のコンサートやる必要がありますね。まだまだ目標には遠いです。 

――コロナ前とコロナ後でなにか変わりましたか。 

コロナが始まった2年間は演奏会の開催数は大きく減少しました。でもその間に私達はたくさんのことをしました。コロナを経て私達の活動は一層、多様化したと思います。その大きな要因は格差です。コロナで社会がもう一段悪くなりました。 

経済的格差、これは当たり前ですけど、様々な社会問題を生みます。虐待、ドメスティックバイオレンス、貧困。当たり前ですけど、社会の中で取り残された人が孤立して、どうしようもなくなって、そこに貧困とか、色々なものが加わったときに、自暴自棄になるなってほうが難しい。生きてても仕方がないって人達がたくさん出てきます。死にたいって人がたくさん出てくる。その中で一定割合は人を道づれにします。 

だからもっと私達の活動を加速しなきゃいけない。子ども達や病んだ人達の心のケアをしなくちゃいけない。 

そういう人達はコンサートを開催してもそこに来る余裕はない。心の余裕、お金の余裕がない人達がたくさんいる。だから、パブリックスペースでコンサートをやるようにしたり、ショッピングモールとかの通路など、誰もが来れる様々なところに出かけていってコンサートを開催するようになりました。 

こちらから出かけていって演奏して曲を流していくしかないのです。曲を流していれば、ふと足を止め、ひょっとしたら、精神的に追い詰められていた人が、持っていたナイフを落とすかもしれない。それを期待しています。この2年間で活動範囲をガラッと変えました。 

――最後に読者にメッセージをお願いします。 

自分の会社を後継者に無事に譲渡できた。これは大変めでたく、人生の成功者です。でもきっと、心にぽっかりと穴が空いたり、おれはもう必要とされてないんじゃないかって思っている方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。でも人生というのはいくつもステージがあると私は思っています。そして年齢も必ず積み重なっていきます。いつまでも同じステージではありません。だから、自分は次のステージの人生をまだ生きることができるって思ってほしいですね。 

私達の歳になると、もう何も欲しいものはないのではないでしょうか。自分のやりたかったことはすべてやった。欲しいものがなくなったとき、何が残っているかというと、人のために生きるしかありません。 

人のために何かするしかない。私は人が幸せになっていくことがすごく自分の幸せです。元経営者の方も多かれ少なかれそういう人達が多いと思います。なぜかというと、これまで従業員の幸せをすごく考えてきましたから。今度はもっと対象を広くして、色々な人のために、色々な人が幸せになるように、自分のもっているモノを使って、活動してください。それが最大の贅沢なんじゃないかと思います。 

そして、これからは社会に対して自分のやるべきだと思うことをやってほしいですね。やりたいことをやるのではなくて、やるべきことをやってほしいと思います。 

――ありがとうございました。 

お知らせ:上記蓑田氏の講演を2023年1月に開催します!

〈日程〉
・2023年1月11日(水) 15:00~16:00
・2023年1月20日(金) 15:00~16:00
・2023年1月26日(木) 15:00~16:00

お申込みはコチラ:https://www.nihon-ma.co.jp/page/seminar/next-navi2301/